日記

あす"きの日記、あす"にっき

景色を食って,それだけで生きていくねえ!

私の趣味,音楽,アニメ,小説。やば。全部一人で家の中で完結してしまうよ~。

この三つ,全部景色でできてるから。少なくとも私の中でこれらは景色として昇華,消化されていく。多分!

 

アニメは一番わかりやすい。絵がついてるから,そこには景色がついて回る。けどそこで見ているのはそのアニメの中のキャラクターたちが生きている世界じゃなくて,それよりももっと抽象化された,回想される存在し得ない景色のことです。多分。夢みたいな,寝ているときの。

だけどアニメの場合はどうしても絵の情報に惑わされてしまうから,なかなか奥まで入り込むことが難しい。私がその世界の中に入ってしまってはダメで,そこから抽象的な何かを掬い上げることができなくなってしまう。

 

小説は絵がない,挿絵があるとしても限定的,であるからより景色を見やすい。もちろん情景描写はあったりするけど,視覚情報に惑わされることなく,だからこそ映像が浮かびやすい。そして表現自体が抽象的なものであることが多々あるから,その表現の奥へと入り込むことができる。

 

音楽は,難しい。直接的に,言語化可能なものとして与えられる情報が少ない(少なくとも私にとっては)し,歌詞も非常に限定的で断片的なものが多い。MVも一枚絵のものが多いし,凝ったアニメーションであってもそれが(例えば想像フォレストのような)明確なストーリーを描いたものでなければ,やはり直接的な情報とならない(よね?)。

この直接的な情報の少なさゆえに,時として音楽は極上の景色となり得る,と私は思っているよ!はあ,,,

 

ようするに,隙が必要なんですよ。創作物の間には。

例えばアニメでも小説でも,考察というものがある。どうしてこの人物はこのような行動に至ったのか,それを作中のその人物に関わる描写から推測する,といった高貴な遊びです。これは隙があるから成り立っているのであって,その人物が生まれてから物語の現在地点まで一片の隙もなく描写されていたら(そんなことは不可能ですが)考察は多分できない。リドルストーリー(結末はあなたの胸の中に的なアレ)がこの世に多く存在するのも,言ってしまえば意図的に,これ以上ないくらいにわかりやすい形で用意された隙である,なんて言ってみてもいいですよね!はあ。

リドルストーリーで思い出したけど,いまさら翼といわれてものラストから私の中の時,止まってる!続編はまだですか。

 

東京大学「ボーカロイド音楽論」講義(著:鮎川ぱて)にも似たような話があったけど,ボーカロイドの歌声というものはそれだけで「歌手の感情(あるいはそれに類する何か)」というものが失われている。鮎川ぱてさんはこれを「ボーカロイド函数性」と言っていて,感情がないからこそ自分をそこに代入することができるとのことです。確かに!

歌手の感情はそれだけで隙を埋めてしまう可能性がある。だからこそ私は今日も本屋で本を買い,dアニメストアで冬アニメを視聴し,ニコニコ動画で識らないミュージックを探してしまうのかもしれないと思った。

 

ところで回想される景色は感情の形をとっていることが多い。というよりは感情というものを景色に透かして見ているのかも。どっちでもいいや。

でもこの景色が見えたとき,マジでブチ気持ちいいから。作者の意図とか,表現方法の巧さとか,そこに積み重ねられてきた歴史とか,そんなの関係なく俺の頭の中に景色が生まれたときだけ,それだけで生きてる。

 

どうでもいいけど,ここに書かれた内容をもとにAIがタイトルを考えてくれる機能があるらしいから使ってみた!AIのタイトル案

・音楽とアニメに想いを馳せる日々←そのまますぎてダサい

・抽象的な景色を追い求めて←中学生の作文のタイトルみたい

・感情と共鳴する豊かな風景←お前に人間の真似事はまだ早い,帰りなさい